2020-11-13 第203回国会 衆議院 法務委員会 第2号
翌年の一九三五年二月の帝国議会貴族院本会議では、天皇機関説を唱えていた美濃部達吉、当時貴族院の勅選議員でありました。この美濃部達吉が激しく攻撃をされ、九月にはもう辞任に追い込まれます。翌年、一九三六年二月二十一日には、その美濃部さんが右翼に襲撃、銃撃をされて重傷を負います。その数日後にあの二・二六事件が起きるわけですね。
翌年の一九三五年二月の帝国議会貴族院本会議では、天皇機関説を唱えていた美濃部達吉、当時貴族院の勅選議員でありました。この美濃部達吉が激しく攻撃をされ、九月にはもう辞任に追い込まれます。翌年、一九三六年二月二十一日には、その美濃部さんが右翼に襲撃、銃撃をされて重傷を負います。その数日後にあの二・二六事件が起きるわけですね。
赤木正雄さんという先輩がいらっしゃって、林学出身者で初めて内務省に就職されて、立山を初めいろいろなところで砂防事業をやられて、最後は貴族院議員に勅選をされました。叙勲も得ておられます。そして、今回も立山の水谷出張所で砂防事業について天皇に御奏上申し上げているということで、いわば砂防事業が世界語にもなっているし、日本人の心の中にしみ入っている。 地名にもあるんですね。
そこで、地方との役割分担をやっていくときに、やはり佐藤先生、歴史的に見て、明治四年の廃藩置県で三百大名を四十七にして、しかもそれは勅選知事で、いきなりぼんと知事を送り込んでいっているわけですから、本省の課長になる手前ぐらいのところでみんな知事に出ていったわけです。
例えば、バリスター、法廷弁護士というふうに言われる人は、これもまた昇進していくといいますか、年齢を積んで技術が向上してまいりますと勅選弁護士、QCという地位につきますけれども、勅選弁護士になったバリスターが法廷に出る場合は必ず、ジュニアのバリスターと言いますけれども、若い弁護士を一緒に連れていかなければいけない、そういうような慣行がございました。
これは、枢密院、すなわち枢密顧問官や貴族院勅選議員を想定します枢密院と、従来の大審院とは違う裁判官を想定します学者委員、弁護士会、司法省の側の見解がくしくも一致したわけでございます。最高裁判事のうち五名については、「識見の高い、法律の素養のある」ことを条件とした上で、法律専門家以外の人物がつく可能性が生じました。法律の専門的な知識は要求されておらず、かえって、識見の高いことが要請されております。
一つだけ私どもが思っておりますのは、これは勅選知事じゃないんですから、きちんと、強制的ではなくて、よく話を聞いた上で手間暇かけてやっていく以外にこれは手がないだろうなというのが率直なあれですけれども、ただ、言われましたとおり、平成十七年三月三十一日で切れちゃったから、もうそれは後は何もしませんというわけにはいかぬだろうなというのは、多分第二十八次の地方制度調査会で出てくる答申にもなろうかと思いますので
恐らくイランとかレバノンとか、最近はクウェートもそうでしょうと思いますけれども、こういう国では最近の民主化の動きもあって、国会が非常に活発に活動しておりますが、例えばサウジアラビアに行かれた場合、先ほど、サウジアラビアの水準では九〇年代になって、これは湾岸戦争のいろんな余波もあって、民選ではないけれども勅選のいわゆる諮問評議会というものができましたが、これは日本の国会とはやはり全く違うものだし、それから
この二院制の機能は、職能代表制あるいは勅選の議員でもって選ぶという、そういった直接選挙によらない二院制を提示いたしました。しかしながら、これは日本国の民主化を図るというその大きな流れの中では一蹴されました。結局、二院制を採用するに至りましたけれども、しかし第二院である参議院は公選によることとなりました。 四月に帝国憲法改正案が内閣から国民に知らされました。
ちょっと文献を調べてみますと、明治憲法下のときに我が国の貴族院議員も皇族、華族、勅選議員をもって組織されており、公選の形をとる衆議院とはその構成を異にしております。外国でも上院と下院というのがございまして、アメリカ合衆国の連邦議会におきましても、上院は各州を代表し下院は国民を代表する、そういう意味で下院議員を代議士と呼ぶと、そういうように明記されております。
このとき、推薦制あるいは勅選制なども話題になったようですが、この原則に反するということで日の目を見なかったと聞いております。まさに、現在もこれと同じ問題に直面していると言えるのではないでしょうか。
○国務大臣(佐藤観樹君) 定まった説があるわけではございませんが、今の先生の質問の中にも答えは入っているような気がするのでありますが、明治憲法下で、貴族院の場合には皇族、華族、勅選議員ということで、直接国民に選ばれた方でない方が議員になっておった。それに対しまして衆議院の方は直接選挙によったというところで分けられた名称が明治当初以来代議士という言葉だったと私は理解しているわけであります。
これは一方的に申すようですが、戦前の外交官というのは国内の足が余りなくて、外交官をやめた後の、まあ子女の教育も含んでおりますし、この関係からいろいろそういう人たちの後の身の振り方も知っておりますが、しかし、大体において大使はこの参議院の前身と言っていいだろうと思う貴族院の勅選議員になり、それからその中の長老が枢密顧問でありました。
殊に私がまだ学者の見習いのときに先生であった美濃部達吉先生が天皇機関説について当時の議会で問題になりまして、その何といいますか説明の演説をされまして、当時美濃部先生は勅選議員でありましたが、その当時は議会というものが本会議中心で、しかも読会制度になっておったもんですから、あれほどの大きなことになりますと議員がみんな一斉に本会議に出ていて、重要な問題というのは議員がわざわざこういう委員会に出てこなくても
勅選による貴族院から公選による参議院へ生まれ変わってから、はや三十八年になります。この間、本院は国権の最高機関として、六年という長い任期の保障のもと、国民より選ばれた多くの優秀なオピニオンリーダーが、国家、国民の規範としての法律制度の検討を通じて、議会政治、民主政治の発展と国民生活の向上に尽くしてまいったところであります。
勅選による貴族院から公選を採用した参議院へ生まれ変わってから、はや三十五年、十二回の通常選挙を経てまいりました。本院はこれまで二院制の一翼を担って、議会制民主政治の確立と国力の発展、福祉の充実にその使命を果たしてきたところであります。しかしながら、参議院の歴史を振り返って、われわれが真に求められ、期待されるにふさわしい二院制の機能を果たしてきたと言えるでありましょうか。
なぜなったかといったら、その人は選挙をやらない人、勅選議員です。だから選挙というものがいかに政治家を堕落さすものであるかということもここで教えておる。そうですよ、これは総裁公選も含めて選挙というものは人間を堕落さす。
かつて古今和歌集、醍醐天皇のときの勅選第一代の和歌集の中の賀の歌のところに「一つもて君を祝わん 二つもて親を祝わん 二本ある松」つまりお正月の門松は二本ある、それは、一つの松は夫が妻に、妻が夫に、あなたはあなたはと祝う門松ですよ、もう一つは、今日までお父さん、お母さん育てていただいてありがとうという、親に対する感謝の松ですよ、という歌が賀の歌にあります。
顧みますれば、私は、貴族院議員に勅選され、昭和二十二年、新憲法下初の参議院議員通常選挙に全国区に当選、自来引き続き国会議員として、民主議会政治の歴史とあわせて参議院の歴史とともに歩むことができましたことは、私の無上の喜びでございます。
また、昭和十五年、貴族院議員に勅選され、昭和二十一年四月まで、六年にわたって在職されたのであります。 この間において、責任感の強い先生は、周囲を気にすることなく、一筋に職務の遂行に邁進されました。そして、そのすぐれた手腕が、当時の国情を背景として、要路の人たちの期待を集め、先生をして重要な任務につかせたのであります。 先生に対する評価は、冷厳な敏腕の士であり、逸材であるというのでありました。